現代西遊日乗Ⅳ
ISBN:9784863870260、本体価格:1,300円
日本図書コード分類:C0095(一般/単行本/文学/日本文学評論随筆その他)
246頁、寸法:129×190×17mm、重量300g
発刊:2012/09

現代西遊日乗Ⅳ

【あとがき】
 「西遊」の旅日記の4冊目、20世紀の最後の6年間の記録である。ようやく冷戦が終わったヨーロッパは、新世紀へ向けて共通通貨ユーロ導入の運びとなり、ユーロ圏の新しい発展が期待されていた。米国中心の金融的グローバリゼーションの勢いが一時的に増した時期でもあった。日本はバブル崩壊後のいわゆる「失われた10年」を経験しつつあったが、円は必ずしも安くなってはいなかった。
 勃興中のアジア諸国は、欧米の投資ファンドに振りまわされる通貨危機を経験する。が、その後また成長の軌道へ戻り、結局世界経済の重心がアジアへ移る動きが変わることはなかった。
 そんな時期の欧米の旅を私はともかく毎年つづけていた。欧米と日本との関係は、幕末以来すでに150年に及ぼうとしていた。そのあいだに、日本は近代化にまつわるあらゆる難題を乗り越えて、行き着くところまで行き着きつつあった。旅先の旧大陸諸国と似た場所へいつしかやってきていた。旅のあいだに私が日々感じつづけたのはそのことであった。
 その地点で触れあう相手の姿が、多少ともリアルに浮かぶ旅日記になってくれていればと思う。
 ここに至って、過去の洋行経験者の旅の総体がよく見えるようになったということがある。いわば自らを西洋化しつつ独自の近代化を押し進めた新興国日本の苦労が大きかったことは、その時期の留学生や旅人の苦労を見てもよくわかることである。彼らはきわめて精力的に知識の習得にはげみながら、その仕事のあいまに噴出するように浮かび出る自己の内奥のことばを大量に書き残している。そこに現れるのは、西洋世界における一日本人の明白な個性でありアイデンティティーであった。その意味で「旅のアイデンティティー」ともいうべきものの積み重ねが、いまのわれわれの前にはっきり見えているのである。
 たとえば、ドイツ語圏へ留学した森鴎外と斎藤茂吉の場合なども、真面目な勉学の努力に胸うたれるとともに、現地との関わりのなかで彼らの個性を浮かびあがらせ躍動させる、内なることばの力というものを思わざるを得ないのである。
 日本がより国際的になる大正期は、文系の洋行者の「教養主義」が目立つようにもなるが、それら教養主義者の場合も、しばしばその精細な記録に驚かされる。何というくわしさか、とあきれるような気持ちにもなる。大正教養主義の時代的制約をいうのはたやすいが、それが当時の日本の旅人らしい個性のあらわれでもあったという事実は疑いようがない。
 日本の西洋化の過程で、洋行者たち個々の経験が、いわば一種の人体実験のようなものになるということがあったはずである。衣食住すべてが洋風に切り替わるとき、個々の生理にどんな苦痛と混乱が生じたかは、じつはあまりくわしくわかっていない。彼らがどんな生理的反応を見せたかの簡単な記述も多いとはいえない。食べものについて、着るものについて、住まいについて、昔の人らしくことさらに記録するのをはばかるというところがあったのかもしれない。「教養」方面の記述がくわしくなればなるほど、彼らの生理感覚の記述は見えにくくなっていくのである。
 それに対し、西洋へ行くことのなかった谷崎潤一郎が、上海や横浜の経験をもとに、西洋へ渡った日本人の「人体実験」の物語ともいうべきものを書いている(「友田と松永の話」)。生理的に西洋人のようになったり日本人に戻ったりする極端な体質の男の話であるが、当時の西洋体験の真実の一端を知らされるようである。
 現在、欧米を旅する日本人は、昔の人のように、朝起きて洋服を着なければならないことにいちいち抵抗を感じる、といったことは経験せずにすんでいる。ホテルの部屋が殺風景すぎると感じることもいまではおそらくない。食べものについてだけ、昔の人同様に多少悩まされもするが、日本で西洋料理に親しんでしまったわれわれが、昔の人の違和感を本式に追体験することはもはやむつかしいかもしれない。
 日本の近代化は、日本人ひとりひとりに少なからぬ西洋化をもたらし、欧米を旅するとき、かつてのような違和や摩擦の感じは少なくなっている。だが、そうなってもなお、われわれが昔の人と同じ日本人であることは基本的に変わっていないはずである。それを疑うことは容易にできそうにない。昔の記録を読み、現地を歩きながら、みずからそのことを確かめるような思いが強くなってくる。
 150年のあいだに、われわれは否応なく西洋化させられながら、いまもまぎれもない日本人として生きている。西洋からじつに多くをとり入れ、いつしかそれを自分のものにして楽しんでもいる。欧米を旅するときも、現地でそれなりに西洋文化を楽しむことができている。一般人に異文化のそんな楽しみが可能になっているというのは、じつはほとんど稀有なことだといえるかもしれない。もちろんそれは、美術、音楽、文学からアルピニズムのようなものに至るまで、それぞれ100年以上のたゆまぬ受容の歴史あってのことなのである。
 欧米を歩く現代の日本人は、知らず知らず、一種の自己分裂感覚を楽しむようなやり方をしているのではなかろうか。つまり、好んで西洋文化に親しみながら、自分のなかの日本文化のリアルな感覚を忘れることがない。どちらも等しくリアルなものの分裂の感覚、感情は十分刺激的で、独特な旅の喜びをもたらしてくれる。いまようやく、そんな旅が可能になっているということではないだろうか。
 現在、欧米諸国のみならず日本も、おそらく近代世界のどんづまりの場所にいる。われわれはその場所の成熟、停滞、退廃の感覚をいちいち確かめるような旅をすることになる。そこの視界の不透明さも、もはや馴染みのものになっているであろう。そんなわれわれの「西遊」は、しばしば過去と現在の二つ重ねの旅になって、現在というものの感覚を深めてくれるのである。
  2012年6月  尾高 修也

【目次】
平成7年 1995 ローマ ナポリ パレルモ アグリジェント シラクーザ タオルミーナ サレルノ アマルフィ ラヴェッロ ポジターノ ソレント ポンペイ ローマ
平成8年 1996 シカゴ アーバナ・シャンペーン スプリングフィールド ニュー・セイラム インディアナポリス アーバナ・シャンペーン サンフランシスコ モントレー カーメル サンフランシスコ
平成9年 1997 シンガポール アテネ ミケーネ ナフプリオン エピダウロス デルフィ イラクリオン グルネス クノッソス ディクテ山域 アルカディ ハニア レシムノン アテネ スーニオン岬 シンガポール
平成10年 1998 クアラルンプール フランクフルト ライプツィッヒ グリンマ デーベン村 ドレスデン パリ リモージュ アンジェ レンヌ サン・マロ ギンガン ロスコフ サン・テゴネック村 ギミリオー村 ブレスト パリ ルーアン フォンテーヌブロー ロンドン ロチェスター カンタベリー ドーヴァー リーズ城 クアラルンプール
平成11年 1999 ブリュッセル アーヘン ケルン ワルシャワ クラクフ オシフィエンチム(アウシュヴィッツ) ライプツィッヒ グリンマ ネルハウ村 レーゲンスブルク ミュンヘン シュタルンベルク湖 ブダペスト ウィーン フェスラウ バーデン グシュタッターボーデン ツェル・アム・ゼー グロスグロックナー リンダウ ドナウエッシンゲン チューリッヒ ブリュッセル
平成12年 2000 アムステルダム ライデン ダルムシュタット ヴュルツブルク ハイルブロン バート・ヴィンプフェン ザンクト・ガレン ダヴォス サン・モリッツ アルプ・グリュム モルテラッチュ コモ ベッラッジョ トレメッゾ チェルノッビオ ヌーシャテル ディジョン マコン ドール ブザンソン ルクセンブルク アントワープ ロッテルダム デルフト アムステルダム
あとがき

【著者紹介】
〔著者〕
尾高 修也