讃岐の紙 ~その歴史を訪ねて~
ISBN:9784863870321、本体価格:1,800円
日本図書コード分類:C1021(教養/単行本/歴史地理/日本歴史)
316頁、寸法:148×211×18mm、重量477g
発刊:2013/07
【序章 讃岐の紙~歴史探訪の鳥瞰図~】
愛媛県の詩人坂村真民氏は「念ずれば花開く」などの詩で知られているが、同氏は四国を「詩国」であると評された。しかし、製紙科学を研究する筆者にとっては、四国は「紙国」と称してもよいのではないかと思っている。何故なら、現在でも四国で最も組織化され、特化している産業の一つは製紙産業であるからである。
過去には四国四県にはそれぞれ特色のある手漉き和紙がつくられていた。現在でも徳島県の「阿波和紙」、愛媛県の「伊予和紙」、高知県の「土佐和紙」という名前は残され、漉き場も存在する。しかし、香川県では「讃岐紙」とか「讃岐和紙」という言葉は聞かれなくなっている。讃岐では昭和50(1975)年前後から手漉き和紙は消えてしまい、高松市に古紙再生の新聞用紙をつくる讃州製紙㈱、他に機械漉きの段ボール工場は10社余り、そして川之江から西讃地域に進出してきた衛生材料のメーカーが紙製品の製造を続けているのみである。「讃岐の紙」というのは残念ながら「幻の紙」となってしまったのである。
この原因について昭和60(1985)年代に香川県家庭紙工業組合(当時・栗林公園の東にあった)の事務局長を長年されておられた藤沢肇氏が筆者に語った言葉が忘れられない。
「讃岐で紙漉きが育たなかったのは、原料が不足したからではないでしょうか」
確かに、四国四県の中で森林が少なく、田畑の面積も小さいのは香川県だけである。
紙パルプは手漉き和紙では靭皮繊維を田畑に、機械漉きでは木材の供給源となる森林に依存していた。現在のように流通が発達し、グローバルに原材料を入手できる環境は整っていなかったのである。これは第3章で述べる琴南町造田(ここは、ソウダと読む)で産した造田紙の例をみれば理解される。
藤沢さんは続ける。「讃岐は原料が不足したために、藁などのような粗悪な原料を用いて漉いたのではないでしょうか。従って、粗悪な紙しかできなかったのでしょう。市場から悪い紙は自然消滅せざるを得なかったのです」
他県では原料を輸入して続けていることを考えれば、こればかりではないと筆者は考える。四国の州都として高松地域をはじめ、その周辺で都市化が進んだためであると考える。
このような讃岐の製紙産業の栄枯盛衰は、もう一つ高松市栗林公園近傍の紙町付近の製紙業の営みの変遷を追えば、はっきり判る。日本一小さな県で、交通網が完備し、2次産業から3次産業への転換が目覚ましかったのである。新しい道ができ、大型商業施設がたち並んだのである。以前あちらこちらにあった紙漉きはいつしか消え、紙漉きに関係する地名や文書の中に紙漉きの行われた痕跡を残しているだけとなっている。
筆者は、昭和50(1975)年2月に通商産業省工業技術院四国工業技術試験所(当時)の化繊紙室長として先端技術としての紙の研究開発に従事することになったが、同所は四国だけでなく、全国の中小企業の紙産業の振興を図るということが任務でもあった。そこで、国内外の紙漉きの産地などを巡り歩く機会に恵まれた。特に四国地域では、四国の製紙企業との連携組織として「四国紙パルプ研究協議会」をつくり、産地巡りをする業務がかなり多かった。それでは香川県はどうかということになると、四国工業技術試験所のあった高松市花の宮近辺は、栗林公園の近くで、湧水(地元では、これを「出水」と書き、デスイと呼んでいた)が見られる場所が多く、江戸中期以降昭和の時代までは紙漉きが行われていたのである。恐らく、工業技術院の研究機関を四国に設置した時、同所を紙産業の振興業務のための研究開発機関という任務を負わせたのは、そのためではなかろうかと憶測する。
そのような次第で、筆者は勤務の傍ら「讃岐の紙」の足跡も追跡調査を進めてきていた。そして、平成4~5(1992~93)年頃、それをまとめて「JSA香川(日本科学者会議香川支部)ブックレット」として発刊する予定で準備もした。しかし、その前後に研究所は花の宮から旧高松飛行場の跡地(高松市林町)に移転することが決まり、その準備に追われ、また、定年退官の時期を迎え、新しい職場に移り、出版どころではなくなってしまったのである。
平成13(2001)年4月、行政改革で四国工業技術研究所(後、工業技術試験所から変わった)は独立行政法人産業技術研究所四国センターとなり、紙関係の行政的な仕事は~愛媛県紙パルプ工業会に移った。
その後、数年経って、四国経済産業局は再び四国の組織化されている産業として製紙産業を選び、「地域新成長産業」として振興策が打ち出され、愛媛県紙パルプ工業会が中心となり、四国産業・技術振興センターが窓口となって「四国は紙国」と題するホームページを立ち上げることとなった。
そこで、再び「讃岐の紙」が「幻の紙」であってはいけないと筆者は旧稿をベースにして、新たに調査事項を加えて、「讃岐の紙~その歴史を訪ねて~」を発刊しようとの思いを募らせた。
元来、歴史と物書きが好きで、讃岐の歴史や物書きの同好会、ふるさと研究会、日本科学史研究会の会員、ずいひつ遍路宿の会の同人などになって、論説を寄稿していたことも幸いであった。それまで書き貯めてあった関係ある論説を再度読み直し、編集することをここに試みた。色々な形で投稿した原稿を再編したので、形式が異なり、重複するところもあるが、時間と体力をかけて稿を改めるゆとりはないので、その点は読者にお許しを請わねばならない。
この際、紙の原紙(生(き)漉(ず)きの紙)だけではなく、紙の原料植物のコウゾの栽培及び紙加工品も含めることにした。これまで「四国の手漉き和紙」に関する成書は、阿波和紙に関する宇野清人著『阿波の手漉き紙』(教育文化センター、1980)、村上節太郎著『伊予の手漉和紙』(東雲書店、1986)及び清水泉著『土佐紙業史』(高知県和紙協同組合連合会、1956)など各県における手漉き和紙そのものの歴史であったが、香川県には手漉き業はかなり早くから衰退しているので、手漉き業だけでは十分な資料が収集できなかったことも一因である。
さて、讃岐の紙を時系列的に追ってみると、筆者はまず讃岐の紙の起源を考える必要があると考え、第1章では上代とそれに続く中世の紙を論じた。そこでは、まず『古語拾遺』に現れた日本の紙の始祖神である天日鷲命(あめのひわしのみこと)、別名を麻(お)殖(え)神、忌(いん)部(べ)神のことである。筆者は徳島県では阿波和紙の祖としての忌部を追っていたが(1)、その関係で第1節では讃岐忌部の調査結果を記載した。次いで、第2節では筆者の勤務していた四国工業技術試験所の初代の所長・中場幸郎の記載に基づき(2)、延喜式にまつわる紙屋院の年料貢進の記事を、壽岳文章著の『日本の紙』に記されている記事、それ以降の紙産業の展開は小野晃嗣著の「『日本産業発達史の研究』等に基づき中世の檀紙の展開までを抜粋してまとめた。
第2章は高松市檀紙町に残る讃岐檀紙について調査を行った。第1節では、同町に当時『檀紙村史』の編集委員長をされた高橋忠氏を訪ねて、地名の由来、紙漉き部落にご案内頂き、同村の檀紙について調査した。その時の調査に基づけば、讃岐檀紙については、安政5(1853)年に出来た京極家編纂の『西讃府志』の「造工」の中に円座・紙・墨に次のような記載があることから判る。
「庭訓往来に、讃岐檀紙とあるは、延喜式の当国貢物の中に見え、昔は香川郡円座村、檀紙村の製る所なりしを、今は村の名のみ残りて、製する者なし。(中略)半紙塵紙などは今も製る者折々あり。昔は檀紙の外に善紙の出しにや。(藤原)保則の伝に、藤原保則曰く、讃岐国紙多し、また書を能くする者あり(以下略)」(因みに、藤原保則が讃岐守となったのは元(がん)慶(ぎょう)6(882)年のことである。)
この記述を確認するための訪問である。檀紙とは、高級な公家用紙であるが、讃岐で元慶年間から慶長年間(1596~1614)までの期間漉かれていたというが、その後備中高梁の広瀬の柳井家に移った。
郷土史家高橋忠氏は檀紙について、宣紙の原料である青檀ではないかとの新説を展開されておられた。和紙の研究者の意見を基に、檀紙の原料についてさらに検討したのが同章の第2節、第3節である。これらはいずれも地元の「ふるさと研究会」の会誌『夫留佐土』に投稿したものである。紙史の専門誌でないので、解説的に書いている。即ち、第2節では大沢忍先生のトネリコ説に基づく「石檀」、それに対する壽岳文章先生の反論などを示し、第3節では『大聖武』で代表される荼(だ)毘(び)紙の中にマユミが漉きこまれている紙を発見され、素直に「マユミの紙」と解釈していいのではないかという元高知県紙産業技術センターの大川昭典氏の説を紹介したものである。
更に、近年、久米康生氏は、檀紙は紙面が繭肌のように細やかな皺紋があったからであるとの説を提示されておられる。その論拠は中国の『唐書』「東夷列伝」、『新撰紙鑑』の檀紙類の項に「唐土に繭紙と云うもの、即是なり」との記述があることなどである。そして、決め手は『蹇(けん)驢(よ)(せい)(ろ)嘶餘』の「備中の柳井家の備中檀紙に板干しをせず、縄にかけて干すと記されていることから縄干しでつくられている」と記されていることだという。第1節から第3節まで筆者は檀紙の原料は何かということで判断が迷い、新説に出会う毎に書き記してきた結果である。くどい説明になったことをお許し願いたい。 檀紙がどれほど高価な紙であったかは、第4節で讃岐の紙とは外れるのであるが、柳井家の探訪記で得た檀紙の貴重さを記しておこう。 いずれにしても檀紙はコウゾの紙であるが、皺のある、高貴な紙である。江戸時代で綸(りん)旨(し)や口(く)宣(ぜん)という上意下達の文書や朱印状はこの紙を使用したという。現在は越前と伊予西条の2か所でつくられている。
第3章は高松市紙町及びその周辺の紙漉きの歴史である。この地域は名勝栗林公園の周辺であるが、古くは鷺田村といった。江戸時代の中期、高松藩が旱魃、火事などの災害で藩の財政が窮乏した時に、旧高松藩士の南部伊平が安永(1772~80)年間に伊予三島から亀造(亀遠との説もある)なる紙漉きを雇い、この地の出水を利用して紙漉きを始めた。それがもとで昭和15(1940)年に高松市に編入されるまで、同地区は鷺田村紙漉と呼ばれ、編入後は紙町と呼ばれている。
南部伊平の起こした紙漉きはその地域に定着・繁栄したので、地元の人たちが紙祖としての頌徳碑と墓を春日神社境内に建てた。しかし、それが、後年、人家が立て込み敷地が狭くなったために移転することになった。その事情の調査探訪記が第1節である(3)。
第2節は、訪問から20年ほどの時間が流れたが、「讃岐の紙の歴史」をまとめようと思って、再び紙町周辺の紙産業の歴史の調査を行ったところ、紙町の有志でずいひつ遍路宿会長の篠永哲一氏及び四国工業技術試験所長をされた中場幸郎氏が紙祖とその後の周辺の紙産業の発展史を調べておられたので、それらを軸に高松市の栗林公園周辺の地域の紙産業の発展史を総合的にまとめたものである。特に、紙町で長年紙漉き工として働いておられた池原トミさんの貴重な回顧録が録音テープとして残されており、最盛期の紙漉きの現状などが明らかになった。碑文を基に地元の小学生の紙漉き工程の勉強もなされているという。
第3節では、栗林公園付近の明治44(1911)年の「紙漉きの村絵巻」を小杉放菴が残されているのを見つけ、その絵図(口絵図1)を掲載することを出光美術館からの許可を頂き「夫留佐土」誌に掲載出来た経過を記したので、それを口絵として再掲した。絵図の解析と池原トミさんの語られた紙漉き工程と合わせると、かなり明確に紙町の手漉きのイメージがトレース出来た。
第4節は讃岐の高松の紙の歴史と直接関係はないが、調査の過程で山形県にも高松というところがあり、そこの藩主も松平で、柔紙を漉いていたということを知り、讃岐の高松とよく似た性格をもったところがあると驚嘆したことをまとめたものである。
第5節は第1節、第2節で記した紙町の紙漉き業が同町の周辺特に栗林公園から北面の周辺に発展した状況を記載した。その貴重な資料を教えて頂いた方はふるさと研究会の会員龍満馨氏である。平成25(2013)年1月末のふるさと研究会の新年会の席であった。それは香川大学経済学部の前身の高松商高に着任された児玉洋一先生の「和紙の起源と讃岐」という論文である。その掲載誌「高松経専論叢」(19巻、1・2・3号)は戦災を免れた1冊が香川大学に保存されているというが、そのコピーをわざわざご送付頂いた。
第4章はまんのう町琴南にある内(ない)田(でん)の造(そう)田(だ)で行われた紙漉きの歴史の探訪である。古く同地は鵜足郡造田村と言われていたが、平成の大合併でまんのう町造田という地名になった。徳島県美馬郡と境を接する山村であるが、そこにも桐池という出水もあり、同村の名家西村家の祖先西村忠右衛門が文政年間(1818~29)に紙漉きを始めている。紙町の南部伊平より少し後である。動機はやはり間接的には高松藩の殖産興業であるが、直接的には金比羅商人からの出資があったことである。
第1節は同地に参り、西村家文書を解読され、香川県史をまとめられた大林英雄先生の話をまとめたものである。古文書に基づく説明を受け、西村忠右衛門が始めた紙の販売権の論争、公害問題など昔の紙漉きの社会問題が浮き彫りになった。
第2節は第1節の要約で、その探訪記が『百万塔』に掲載されるまでの補足的な論説で、『夫留佐土』誌に掲載されたものである。
第5章は高松市紙町で開発された新樂水紙という襖紙に関するものである。
この紙の基になる「樂水紙」は熱海ガンピ紙であった。熱海は海底から隆起した地層からなるためか、ガンピがよく生育していた。そこに目を付けたのが讃岐が生んだ寛政(1789~1800)の三博士の一人と言われた柴野栗山であった。熱海に来ていた栗山は、土地の者にガンピ紙を漉くように勧めたのである。ガンピ紙は斐紙とも呼ばれ、カナ文字などに適した紙であるが、それがもとで熱海ガンピ紙が起こったという。
ガンピ紙はヘミセルロースと称する粘性物質が多いために湿紙の段階では紙の表面がベトベトしている。そこで乾燥過程で、近くで干していた海藻が風に吹かれて付着し、塵をばらまいたような紙が出来たという。これが「楽水紙」と呼ばれるもので、江戸では御用紙漉き家の玉川堂の田村家で漉いていた。
高松市紙町では、ミツマタを原料としてこの海藻入りの漉き模様のミツマタ紙を木綿の蚊帳地の簀で漉くことを松下善太郎が考え出したのである。これが「新樂水紙」と呼ばれる紙である。讃岐で開発された生(き)紙(がみ)では数少ない手漉き紙の1つであろう。
この記事は、筆者が海藻から紙をつくるという研究の過程で、文献調査を行っていた時に、関義城の『江戸・東京・紙漉史考』の中に書かれていることを発見し、拙著『海からの紙』の中で海藻混抄紙の章で紹介しているが(4)、本章では、新樂水紙に重点を置いて述べている。
第6章は紙の原料であるコウゾの栽培に関して、江戸時代の後期に高松藩、丸亀藩で行われた栽培奨励政策についての文書の解説を紹介した。
当初本書発刊の原稿では、香川県下でのコウゾの供給体制に関する調査はなされていなかった。初校でまんのう町造田紙について疑問を生じて、引用文献を当たるために香川県立文書館に行った。そこで、古文書をご担当の堀和子さんに尋ねた。
「香川県の古文書の中に紙漉きのことを書かれたものはありますか」との問いに、答えは紙漉きに関しては既知のことばかりであったが、「コウゾの栽培に関する文書なら、いくつかありますよ。今、展示室で『近世讃岐の国産奨励~讃岐三白と藍・和紙・蝋~』〔展示期間2012年7月24日~9月30日〕でコウゾの栽培の展示も行っています。よろしかったらご案内します」と言われ、展示室に案内された。
展示は江戸の末期、財政を立て直そうとして国産品の増産を図った時の農産物の栽培に関する文書の展示であったが、その中にコウゾの栽培に関する文書があった。江戸時代は重農主義で、各藩ではこぞって新田開発を奨励し、農業の技術改良に力を入れ、特に商品作物として「四木三草」の栽培を重視した。「四木」とは桑、漆、茶、コウゾ、また「三草」とは麻、藍、ベニバナである。そのため、紙原料のコウゾは池の堤、田圃の畔などによく植えられていた。
上記の展示では、高松藩では香川郡東百相村・出作村・三名村(現・高松市仏生山町・出作町・三名村)、阿野郡南川東村(現・まんのう町川東)、また丸亀藩では三野郡中ノ村(現・三豊市財田町財田中)で植栽されていたことを示していた。
また、その時文書館から借り出した『琴南町誌』、『香川県史』などにも、注意して読むと色々な史実が記載されていた。
そこで、本章では、その展示内容を中心に、その他を文献で補って、和紙原料のコウゾの栽培・加工の国産奨励について述べた。
第7章及び第8章は原紙ではなく、加工紙に関するものである。
第7章では讃岐の産んだ奇才、偉才の平賀源内が生んだ金唐革紙に関する紹介である。源内はさぬき市志度に生まれた。しかし、源内の活躍の場は讃岐ではなく、大半が江戸であった。金唐革紙を創製したのも、勿論江戸である。
しかし、源内が讃岐生まれであることを理由に、ここでは「讃岐から生まれた加工紙」の1つとして論ずることにした。さぬき市では郷土の偉人として尊敬を集めているからである。
源内の時代に、オランダから金唐革が運ばれてきた。主に、将軍、幕府高官への献上品あるいは特注品としてであった。一部は町人などに流れたものもあったであろう。これらは刻まれて袋もの、例えばタバコ入れ、財布入れ、巾着などになったが、品物が少なく庶民には高嶺の花であった。それを庶民向けにしたのが源内であった。和紙と漆で擬革をつくり、錫箔で、金のようなキラキラする加飾を施したものである。「金唐革紙」と呼ぶ一種の加飾和紙である。
そして、平賀源内記念館がさぬき市に新設されて、そのオープニングの企画展として平成22(2010)年春開催の「金唐革紙~革から紙へ~」展示に協力して、金唐革紙について色々と調査した(5)。調査に当たっては、皮革工芸作家の故・森下雅子様の御主人森下正司様と御子息章生様から普通では入手できない資料文献を頂き、これで研究が飛躍的に前進した。
第1節では、ふるさと研究会の会誌、『夫留佐土』誌が「讃岐の尊敬する人」というテーマの特集号があり、その時源内のプロフィールを簡単にまとめた。源内についてよく研究していない時であり、源内の人間性についてはまだ充分研究するに至っていない時の記事である。そして、ふと思った。今、源内さんがいたらどんなことをするであろうか。さぬき市合併10周年を記念して平賀源内シンポジウム「今日に生きる源内」が開催された。
第2節は平賀源内記念館の企画展に合わせて、源内作の文庫を分析を行った結果から発展した研究論文を再録したものである。源内は金唐革紙をつくるのに錫箔を使っていることを発見し、それがエレキテルの創製にも関係を持つのではないかとの説を提唱している。
第3節は金唐革紙の復原をされた工芸作家、後藤清吉郎氏と上田尚氏に製法をご教授いただいた時の記事である。
なお、筆者は静電気学会が平賀源内特集号を出すというので、同じく金唐革紙について、擬革紙という和紙の技術史上の立場からの論説をまとめている(靜電気学会誌、36巻、4号、192~197頁(2012))。第2節とは多少異なった切り口からの金唐革紙論であるので、もし興味のある読者は別に読んで頂きたい。
第8章では丸亀うちわの歩みと題して、丸亀うちわの歴史をまとめた。香川の東のさぬき市志度生まれの源内の産んだ「金唐革紙」に対応する西の紙加工製品として「丸亀うちわ」を紹介したいと思った。うちわの産地は全国で10数か所あるが、丸亀うちわのシェアは全国第1位を占めている。「うどんだけじゃない」香川県である。そして、今なお、企業指数にして50社、530人ほどの従事者がいる国指定の伝統産業製品である。うどんに続く香川県の売り出しポイントは「アート県」ということらしいが、丸亀うちわは工芸品としても、金唐革紙とともにアートの一端を担うといってもいいであろう。また、国際協力機構(JICA)のパートナーシッププロジェクトとして、2012~15年にわたりラオスのビェンチャン地区のうちわ工業の支援が進められている。
丸亀うちわの起源は3つあり、金毘羅宮の大権現別当職の金光院宥(ゆう)睨(げん)(一説には宥光)の考えた男竹丸柄のうちわ、丸亀藩の内職としての女竹丸柄のうちわ及び塩屋地区の平柄のうちわが合体して、発達した産業である。出発も違い、しかも、工程も「骨」のプロセス、「貼り立て」のプロセス、加えて販売の商業という3つの業種が相互に協力し合う体制ができるに至って、今日の連合組織が形成された。その体制のために、うちわのシェアは全国第1位を占めるに至ったと思う。このような協力体制がどのような経過を経て組織化されるに至ったかは産業史的には興味あるところである。その経過を筆者は、香川県うちわ連合組合を戦後リードされてこられた顧問の加門実氏の話に耳を傾け、その栄枯盛衰を追ってみた。
最後に、終章を書いている時、東京生まれの筆者は、もう完全に讃岐人になってしまったという感慨を新たにした。考えてみると、人生でもっとも実りある後半生を四国の高松で過したために、讃岐が郷里のような感懐を持っているからである。そして、この本は讃岐人が書いた、讃岐の紙を研究した「卒業証明書」のようなものだと思っている。
参考文献
(1)小林良生、a.民芸手帳、283号、14~20頁(1981.12.1);b.民芸手帳、284号、8~15頁(1982.1.1)
;c.100塔、62号、65~87頁(1985.4)
(2)中場幸郎、百万塔、69号、71~84頁(1988.1)
(3)小林良生、百万塔、62号、65~87頁(1985.4)
(4)小林良生、『海からの紙~海藻紙の系譜~』、47~61頁、ユニ出版(1993)
(5)小林良生、百万塔、139号、44~68頁、(2011)
【終章 編集を終えて】
紙の科学技術を研究の対象としたことは、偶然の出会いであるが、筆者にとって極めて有難かった。それは紙には文化と歴史という側面があるからである。自然科学の対象だけではなく、人文科学の対象にもなっているからである。
筆者が尊敬していたニツポン高度紙㈱の会長の故岡田盛氏は、「仕事を趣味の世界に入れてしまえ」と言われておられた。紙の歴史・文化面の調査は、工業技術院の研究所では技術指導の範ちゅうに属する業務であったが、それは業務を越えて筆者の趣味の領域に近く、興味深かったし、また楽しかったが、同時に機能紙の研究開発にも多くのヒントを提供した。ここで取り扱った紙の歴史は産業史の一ジャンルであるが、所詮趣味の領域であると思っている。
編集してみてわかったことは、文献を追っていくだけでは、讃岐の紙漉きの歴史はとらえられなかったであろうということである。紙に関する僅かな情報に基づき、現地に赴き、その場所の郷土史家、歴史家あるいはその分野に関係を持たれた方に直接お聞きすることが必要であった。
新聞などでニュースになったタイミングに合わせて、人的ネットワークをつくり、現地を訪ねること、また、日頃から問題意識と関心を持っていることなどが重要であると思った。なぜならば、本書はつくった本ではなく、足で稼いだ本であるからである。足で稼ぐに当たって、岡田さんは次のようにも言われておられた。「聴く耳は問題意識に比例する」。筆者は相手の話を、書き留めて記事にするという意識で書いた積りではある。探訪先での話をどれほどの問題意識で聴いていたかは、読者が判断されることであろう。また、訪問先で、色々と教えて頂いた方々には衷心から感謝申し上げます。
なお、出版が遅くなり、ご教示頂いた方々で、鬼籍に入られた方も多いと推察するが、お許しを頂かねばならないと思っております。次に書き方であるが、執筆に当たっては、ずいひつ遍路宿の会の会長・篠永哲一氏から「ずいひつ遍路宿のように判り易く、気軽に書いて下さい」との注文を付けられていたのであるが、どうしても専門的な面も書かねばならず、また、論説の再録などが半分を占めたので、やはり難しく、理屈ぽいものになってしまった。しかも、一つのテーマを長年かけて探求していて、その都度発表していたので、書いたことの重複が多くなってしまった。十分整理されていないことを反省している。この点は読者諸賢にお詫びしなければならない。
ただ、これまで香川県の紙産業についての成書は、筆者の調べたところでは、宮田忠彦著『香川の産業』(市民文庫シリーズ)に高松市紙町のちり紙、檀紙、丸亀のうちわ、そして本書には触れなかったが、高松の日傘などが簡単に紹介されている程度であり、本書が「讃岐の紙」の歴史の入門書にでもなれば、望外の喜びである。
最後に、このような本の執筆、出版をするに当たって、妻一恵は経済面でも一言も注文を付けることなく、自由にさせてくれたこと及び終始激励してくれたことを、心から感謝したい。
なお、拙著に小杉放菴の「紙漉きの村絵巻」の多色刷での掲載をご承認いただいた出光美術館、及び『中讃・西讃の年』の団扇工場の写真の転載を許された㈱郷土出版社に感謝いたします。合わせて『高松市年』の「製紙工場のなか」のデジタルデータを頂き、転載を許可された高松市歴史資料館に深謝申し上げます。
平成25(2013)年6月吉日 屋島山麓の新緑を眺めながら 著者記す
【構成各章の論説の出典リスト】
序章 讃岐の紙~歴史探訪の俯瞰図~(初出)
第1章 上代・中世における讃岐の紙
第1節 紙祖を探る~讃岐忌部と三木~(夫留佐土、第36号、1~2頁、1992)
第2節 上代・中世における讃岐の紙(初出)
第2章 讃岐檀紙を訪ねて
第1節 高松市檀紙町における檀紙の痕跡(百万塔、第79号、21~29頁、1991)
第2節 檀紙町の起源となる「檀紙」考(夫留佐土、第41号、5~7頁、1995)
第3節 「檀紙」の由来(夫留佐土、第53号、1~5頁、2007)
第4節 もし「備中檀紙」の道を歩めたとすれば(くらしと紙、1989年7月号、14~18頁、(1989)。『和紙博物誌』、10~18頁、抜粋、淡交社(1995))
第5節 近世讃岐和紙の発達補遺~児玉洋一郎博士の論説の紹介(初出)
第3章 まんのう町造田の紙漉き
第1節 まんのう町造田紙の歴史探訪(百万塔、第91号、25~32頁、1995)
第2節 造田紙の概要(夫留佐土、第37号、38~39頁、1992)
第4章 高松市紙町周辺の手漉き業
第1節 高松市紙町周辺の手漉き業の起源(百万塔、第87号、26~33頁、1994)
第2節 高松市紙町周辺の製紙産業発展史(初出)
第3節 絵図に残された栗林公園の紙漉き風景(夫留佐土、第56号、48~52頁、2010)
第4節 高松違い~山形県の高松との類似性~(夫留佐土、第38号、10~12頁、1993)
第5節 近世讃岐和紙の発達補遺~児玉洋一博士の論説の紹介(初出)
第5章 高松での樂水紙の改良~樂水紙から新樂水紙へ~(初出)
第6章 江戸後期の髙松藩・丸亀藩におけるコウゾの栽培奨励(初出)
第7章 平賀源内の創製した金唐革紙について
第1節 讃岐の尊敬する人・平賀源内(夫留佐土、第39号、4~5頁、1993)
第2節平賀源内の金唐革紙の創製をめぐって(MUSEUM、第630号、37~58頁、2011)
第3節 金唐革紙作家を訪ねて
~金唐和紙作家・後藤清吉郎氏を訪ねて(民芸手帳、第267号、8~11頁、1980)
~金唐紙作家・上田尚氏の製法を学ぶ(ずいひつ遍路宿選集、第2集、85~87頁、2009)
第8章 丸亀うちわの歩み(初出)
終章 編集を終えて(初出)
(注)
・「夫留佐土」誌とは、香川県のふるさと研究会の機関誌。
・「くらしと紙」は紙業タイムス社から発刊されていた家庭紙向けの雑誌であるが、廃刊となっている。
・「ずいひつ遍路宿選集」とは、香川県のずいひつ遍路宿の会で発刊した同人の随筆集である。
・「百万塔」は~紙の博物館(東京・北区)の機関誌。
・「民芸手帳」は民芸協会の機関誌であったが、現在は廃刊になっている。
・「MUSEUM」は東京国立博物館学芸企画部企画課出版企画室で発行している日本・東洋の美術史学、工芸史学、考古学などの学術誌である。
【目次】
序章 讃岐の紙~歴史探訪の鳥瞰図~
第一章 上代・中世における讃岐の紙
第一節 紙祖を探る~讃岐忌部と三木~
第二節 上代・中世の讃岐の紙
第二章 讃岐檀紙を訪ねて
第一節 高松市檀紙町における檀紙の痕跡
第二節 檀紙町の起源となる「檀紙」考
第三節 「檀紙」の由来
第四節 もし「備中檀紙」の道を歩めたとすれば
第三章 まんのう町造(そう) 田(だ) の紙漉き
第一節 造田の紙の歴史探訪
第二節 まんのう町造(そう) 田(だ) 紙の概要
第四章 高松市紙町周辺の手漉き業
第一節 高松市紙町周辺の手漉き業の起源
第二節 高松市紙町周辺の製紙業の発達史
第三節 絵図に残された栗林公園付近の紙漉風景
第四節 高松違い~山形の高松との類似性~
第五節 近世讃岐和紙の発達補遺~児玉洋一博士の論説の紹介~
第五章 高松での樂水紙の改良~樂水紙から新樂水紙へ~
第六章 江戸後期の高松藩・丸亀藩におけるコウゾの栽培の奨励
第七章 平賀源内の創製した金唐革紙について
第一節 尊敬する讃岐人・平賀源内
第二節 平賀源内の金唐革紙の創製を巡って
第三節 金唐革紙作家を訪ねて
(一)金唐和紙作家・後藤清吉郎氏を訪ねて
(二)金唐紙作家・上田尚氏の製法を学ぶ
第八章 丸亀うちわの歩み
終章 編集を終えて
【著者紹介】
〔著者〕
小林 良生