近代中国断章
ISBN:9784863871083、本体価格:2,000円
日本図書コード分類:C3000(専門/単行本/総記/総記)
284頁、寸法:148.5×210×16mm、重量427g
発刊:2019/12

近代中国断章

【出版説明】
 本書はもう四半世紀近くも前に亡くなった原島春雄さんの遺稿論文集です。
 原島さんは1997年6月10日に亡くなる最期の病床で、『陳寅恪的最后二十年』(1996年北京で出版) 読書と共に、ご自分の著書の構成、章立てについていくつかのメモを残されていました。
 本書は、その内容を第一部としました。しかし、既にネット上に公開されているそれらを、改めて本にすることにどのような意味があるのでしょうか。
 それらの論文は、おそらく、一つひとつばらばらに読んでみても、興味深くはあれ、意図する所が分かりにくい。論文ごと何かを考証して成果とするようなものでは、全くない。ゆえに、全体を通読してそれらが意味するところを理解する必要があるのではないか、それが私たちの思いでした。そのため、第一部の前提となった意想を知る手がかりとして・第二部を構成しました。時期的にも第一部よりやや前のものが多いので、読者は第二部から先に読まれるのがよいかもしれません。
 第三部は、一番最初と最後の二篇で構成されています。原島さんは学生時代京都では王夫之(船山)を、大学院の仙台では章炳麟(太炎)を研究されていました。また後には王国維の研究を進め、甲骨文、文字学にも深く分け入っておられたようで、それの片鱗がもう一篇からうかがえます。また、「朝鮮における近代化の問題」研究プロジェクトにも参加されていました。朝鮮史への関心は学生時代以来のものと言えます。
 他にも中国語の先生として漢語の修辞文法に関わる論文もあります。学生時代の王夫之研究については不明のままですが、偶々見つけた次の文を付け加えておくことにします。高田淳先生と一緒に王夫之の故郷を訪問された時のものです。そこに記録された著者の言葉が本書「自序」の代わりになるでしょうか。微笑みながら低い声で真面目に冗談を言う原島さん面目躍如の場面です。
なお、武内房司先生の「原島春雄先生をしのぶ」(『学習院史学』第36号、学習院大学史学会、1998年3月)に「主要著作目録」が付されています。
 本書掲載論文の初出は各文章の末尾に記載しています。また、原島さん自身が付されたものだけでなく、編者の読めない漢字にふりかなを付け加えました。(編者)

【編集のあとに】
 1969年4月1日、東洋史闘争委員会から、「明日オリエンテーションをやるので、東洋史研究室へいらっしゃいませんか」という電話があった。
 その年の1月16日、学生部封鎖に端を発した京大闘争が始まっていた。封鎖された学生部の中から女子学生の歌うインターが流れ、ふと傍を見ると、当時中文の助教授だった高橋和巳氏がその歌をじっと聞いていた。教養部封鎖に続いて文学部の封鎖が3月14日に行われた。(私たちは3月まで教養部の学生だった。)
 翌日2日、文学部新館のバリケードの迷路を潜って中庭に入ると、2階の窓のベランダに一人の男子学生がいて、「廊下は封鎖されているので、その梯子を上がって来てください」と言う。2階の窓から中へ入って、その学生と初対面の挨拶をした。研究室へ行く間、その人は「あなたも東洋史のアカデミズムに惹かれていらしたんですか?」と聞く。私は、当時東洋史学科に属していた西南アジア史を専攻するつもりであった。私の答えは、「いいえ、アフガニスタンへ行きたいのです。」当時、京大からアフガニスタン探検隊が派遣されていた。私の答えは、その人の予想とかけ離れていたらしく、不審の眼差しが返って来た。それが、一年先輩の原
島さんとの出会いだった。
 翌日から、東洋史の教授や助教授との団交、文学部の大学院入試阻止闘争、自主講座、デモ、集会、合宿、限りない討論(仏文の人がパリ五月革命を語り、原島さんが文革を語るのを聞いた)、百万遍カルチェラタン、時計台の攻防……いろいろのことがあり、9月には封鎖は解除され、「正常化」が進みつつも、何かあるたびにストがあり、騒がしさの続く学生時代を過ごした。
 東洋史闘争委員会を構成していたのは、院生と学部学生であったが、中心になった四回生は、のちに竺沙雅章先生が「十年に一度の学年」とおっしゃったように、勉強家揃いであり、その中でも原島さんは目立つ存在であった。追求の中心は学問のあり方、知のあり様を問うものであった。だから、自分の場所を崩す運動は、苦しいものであった。
 先輩たちは71年に、私たちは72年に卒業し、京都に残るもの、京都を去るもの、それぞれに私たちは散った。
 数年後、東洋史の先輩から、原島さんが文革後の中国へ行かれた、とお聞きした。そうなのか……。そして20年後、再び噂を聞いた。原島さんが亡くなった、と。そうなのか……。
 それからまた20年後、ある集まりで原島さんの思い出が語られた。20年、いや40年の時間の経過が吹っ飛び、私はあの優れた先輩があの後何をなさったのか、何をなさろうとされたのかという疑問にかられ、20年前にはなかった道具、パソコンで調べ始め、学習院大学文学部研究年報に発表された論文を発見した。原島さんを敬愛していた同期の一人に連絡し、二人で作業を開始し、集められる限りの論文を集め、読んだ。……浅学の身に原島さんの論文を真に理解する能力はない。しかし、私たちは納得した。原島さんは、ご自分の問題意識に従って、素晴らしい論文を残しておられた。当時の語り口が伝わってくる思いがした。私たちはこれを残したいと思った。……
 ついに原島夫人に連絡がつき、奥様から亡くなるまでの最後の頃のご様子をお聞かせいただいた。そして、病床で論文集を出す気持ちでおられたことをお聞きした。……それがこの遺稿集となって結実した。原島さんは奥様に「行方不明のままで思い出されたい……」とおっしゃったそうだ。そのように私たち後輩二人は思い出したのだ。
 原島さんは京都北白川に下宿されていた。高橋和巳『憂鬱なる党派』にも出てくる小学校裏の界隈、静かな住宅地の中の古い下宿屋二階で、他室には独文の大学院生などもおられ、しばしばお世話になった。「原島はバナナを食べるのにナイフとフォークを使う」という先輩たちの間の伝説の様子は見かけたことはないが、リンゴが好きだと上手に剥いてくださって、白ワインもいただいた。
 本棚には茶色の紙のカバーがかかった船山全書がずらりと並び(洋装本でも1969年どんな刊本だったか)、九鬼周造や波多野精一など日本の本もすべて箱まで薄紙で丁寧に包まれていた。相良亨『近世の儒教思想』もあった。君にはマルクスが絶対かもしれないけど、僕にはマルクスも大勢の中の一人なんだ、と言って、スチュアート・ヒューズの思想史を推し、歴史の根本である時間の概念、キリスト教のカイロスとクロノスについてや、ティリッヒの組織神学の話も興味深いものだった。教養部の上横手雅敬先生の話から、僕は日本史も、特に中世史に詳しいんだとにっこりして言われた。ちょうど伊藤野枝全集を熱心に読んでおられた時もあった。平凡社東洋文庫で出た朝鮮史関係の本のことも話題に上った。僕の父の名前はね、「鮮」というんだ。この漢字は何と読むか知ってるかい、「しずか」と読む。僕は家が皆学者だから、京都に来て、学者になる以外のことは考えられない、20代やそこらで本を書くのは感心しないね、僕は40を過ぎてからちゃんとしたものを書きたい、とも。
 見せていただいた厖大な中文の書籍、漢籍には、みな朱で点が打たれ、人名とかの固有名詞には縦線、など伝統的な読書の作法を守っておられたようだ。
 筆者の下宿に立ち寄られた時、偶々西嶋定生の横に史記を置いて読んでいたら、それを手に取ってすらすらと訓読講釈してくださって、史記などみな暗記されているように見えた。中華書局の標点本もそのまま全部信じる必要はないことも知った(顧頡剛の訓点だが)。漢代の社会はまだ統一以前の都市国家の要素が残っていたかもしれないね、とも言われた。王応麟や侯外廬とともに先輩たちとの読書会テキスト『明夷待訪録』だったが、『本朝漢学師承記』と合冊になった台湾刊本を取り上げて(当時文革下の大陸の本はほとんど手に入らなかった)、この本は僕も持っている、けどこちらの方を読みたくて買ったんだ、とおっしゃって、ちょうど山田慶児訳の章炳麟民報論文の話と共に、中国革命の起源が明末清初にあることを教えていただいた。人文研での島田虔次、川勝義雄先生らの様子も出て、当時流行のメルロー・ポンティのことを島田先生に尋ねたら、何でも知ってられたと感嘆しきり、中国文明の一番根っこにあるものは「礼」だと強調された。人文研の先生方が陳舜臣の『阿片戦争』に感心して(冒頭に龔自珍の詩が出てくる)、どんな歴史の論文もあれには及ばないと嘆いておられたという話も印象的だった。
 仙台の金谷治先生の下で章炳𥻘を読まれていることは人づてに聞いた。後に、中国広州から一時日本に戻られた時、甲子園の山村洋介さんのお宅でお会いしたこともある。上海師範大学『世界近代史』の翻訳校正稿を持っておられた(1979年東方書店から上下巻刊行)。中国での暮らしのあれこれ、何を食べようかといつも心配しなければならないことなどと同時に、とんでもない規模の設備投資が始まろうとしていて、もうすぐに中国の工業生産力は何倍にもなるだろうというような中国経済発展への観測も聴いた。突然電話がかかってきて、大阪の淡路(東淀川区)に来ているからと呼び出された時には、狭い下宿部屋に大勢の中国人留学生たちが車座になって、酔った原島さんはその中で心底うれしそうにしておられた。

 本書編集を担当したのは直接には二人ですが、原島優子様はもちろんのこと、かつての先輩・学友のみなさんの友情の絆を支えに進めることができました。論文の転載を快諾してくださった学習院大学文学部、岩波書店、研文出版(山本書店出版部)、中国研究所、『現代の理論』編集委員会の関係者の皆さまのご厚意も忘れられません。ありがとうございました。
 藤田省三を思い起こさせるような本の題名で、かつての中国社会についての20年以上も前に書かれた分析が現代日本社会への鋭い批評のように読めるのも驚きですが、それにしても昨今のあまりに酷い中国についての日本の言論です。遣隋使以来明治大正昭和に至る中国古典文化尊重の気風も今では風前の灯火、日本という国、日本人にとって死活的に重要な中国認識の現代における原点を、中国の「国学」をきちんと踏まえて(朝鮮認識も同様ですが)再構築するために、原島さんの遺稿が何かの役に立つことを切に願います。
 慎むべき贅言ですが、例えば本書第一論文の朝鮮側史料「沈(瀋)館録」によって清朝創成期祭祀の真実を解明しようとするところ、内藤湖南を受け継ぎ(ただしあえて湖南の名を出さず同時代の中国学者孟森に依拠する所に原島さんの姿勢が見てとれる)、また『尋求中国現代性之道』東方出版社・2019年の李沢厚論文が「話のテーマ、シャーマニズムから礼に至る(由巫至礼)」と始められているところからすれば、近代を主題としながら、それを文明の始原とも対比し、新しい多民族、多元的起源論に光を当てている点も納得できるのではないでしょうか。
 最後に、私たち両名は本書編集に携わることができた幸せに感謝いたします。
   2019年8月30日  印藤 和寛  橋本 恭子
 本書は、印藤様、橋本様の深い想いがなかったなら、刊行できなかったでしょう。お二人に感謝です。
 若い世代に、本書が思索の一助となれば幸いです。
 原島春雄とご縁のあった皆様に、心よりお礼申し上げます。
   2019年11月吉日  原島 優子

【目次】
本書刊行に寄せて(山村 洋介)
出版説明(編者)
〔第一部〕
 1 シャーマニズムの墓標―清朝の堂子祭
 2 斉周華とその時代―『大義覚迷録』探微之一
 3 「平均」解
 4 辮髪考
 5 「国」と「家」のあいだ
〔第二部〕
 6 三元里の対話
 7 近代化と中国の思想風土
 8 ある詩人の衰世―.自珍について
 9 林則徐小攷
〔第三部〕
 10 章太炎における学術と革命―「哀」から「寂莫」まで―
 11 蠶叢考
原島春雄略年譜
編集のあとに(印藤 和寛・橋本 恭子)

【著者紹介】
〔著者〕
原島 春雄
〔編集者〕
印藤 和寛
橋本 恭子