栗林公園と歴代藩主 ―瀬戸の都に咲いた華―
ISBN:9784863871694、本体価格:1,600円
日本図書コード分類:C0025(一般/単行本/歴史地理/地理)
249頁、寸法:148.5×210×15mm、重量395g
発刊:2022/11

栗林公園と歴代藩主 ―瀬戸の都に咲いた華―

【監修者序文】
杖(つえ)を公園に曳(ひ)け。水清(きよ)く幽趣(ゆうしゅ)あり雅致(がち)あり、
鯉魚(りぎょ)水中に躍(おど)れば、美鳥(びちょう)花間(かんか)に囀(さえず)る。
草木(そうもく)皆(みな)奇態(きたい)を呈(てい)し、岳陵(がくりょう)相連(あいつら)なり、
一歩にして風光相(あい)転じ園内至(いた)る処(ところ)として、
各々(おのおの)一風景を成(な)さざる所(ところ)はなく、
真(しん)に天下屈指(くっし)の公園たる名(めい)空(むな)しからず、
そぞろに人をして徘徊(はいかい)去(いさ)る能(あた)はざらしむ。
この文は、高松が生んだ文豪菊池寛が「郷里の風景」の中で栗林公園について記したものです。菊池寛にとって、栗林公園は心の故郷そのものだったのでしょう。菊池寛に限らず、高松で生まれ育った者にとって、様々な思い出の中で栗林公園の存在は大きいのではないでしょうか。
私は、昭和7年11月3日(16年後のその日に文化の日となる)に、高松市丸の内町にあった玉藻ホテルの一室で生まれました。そのホテルは父が経営していたもので、今のRNCの少し東にありました。
昭和14年に四番丁小学校へ入学しましたが、ちょうどその年の9月1日にナチスドイツがポーランドに進撃を開始し、第二次世界大戦が勃発しています。2年後の昭和16年12月8日には、日本軍がハワイの真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まりました。小学校を卒業する昭和20年にやっと終戦を迎えました。
したがって、私の小学生時代は暗い戦争の時代でした。それでも、小学生の頃は栗林公園へよく出かけていきました。当時は、築港から栗林公園まで市内電車(チンチン電車)が走っており、広場の停留所から電車に乗ったものです。
しかし、小学生が庭園鑑賞のためにわざわざ栗林公園へ行くはずはなく、当時の小学生にとって栗林公園はいわゆる「遊びの場」でした。よく同級生と「駆逐水雷」という遊びをしたものです。北湖の周辺、講武榭、飛猿巌、飛来峰などなど起伏に富んだ地形はこの戦争ごっこをするのに絶好の場でした。
また、動物園内にあった50メートルプールは、小学生にとって夏場の最高の遊び場でした。高松っ子がみんな泳ぎを覚えたと言われるそのプールの水は、当時はまだ豊富だった地下水を汲み上げたものでした。今も、その水の冷たさの感触を忘れることができません。
その後、私は旧制高松中学校へ進み、3年生の時に同校は新制の高松高等学校となりました。この頃は、勉強や部活動が忙しくなり、栗林公園へ出かけることもあまり無くなりました。高校を卒業すると、上京して学習院大学へ進学し、卒業してからは東京でサラリーマン生活をしていました。
東京時代も帰郷するたびに栗林公園へ行きました。子供の頃は楽しい遊び場でしたが、年齢を重ねるにしたがって、栗林公園の美しさを感じるようになりました。また、東京では小石川後楽園や浜離宮庭園、六義園などにも行きましたが、栗林公園の方が優れているのではないかという思いにかられて高松、香川の歴史や文化にも関心が向き始めました。
昭和46年4月、私は39歳の時に帰郷し、それと同時に栗林公園散歩会に入会しました。散歩会では、先輩諸氏から栗林公園や高松の歴史文化について多くのことを教えていただきました。
また、私は、40歳の頃から、思想家の三上照夫先生に師事して、毎月京都に通っていました。三上先生は、古神道などの日本思想を講じることを通して企業家が持つべき経営哲学を論じていました。
その講話の中で、三上先生は、庭園には草(そう)の庭・行(ぎょう)の庭・真(しん)の庭・枯山水の庭の四種類があり、「草の庭」は全く人工味を加えない自然のまま、荒れたら荒れたままの状態の庭。「行の庭」は人間の知性を重視し、合理主義の考えに基づいて作られた庭。「真の庭」は人間の合理主義に基づきながら自然を壊さず自然の姿に還す庭。「枯山水の庭」は山を用いずに山を現し、水を用いずして水を現す庭をいう、と説かれていました。そして、同じ庭先であっても、人の目線によって、草の庭・行の庭・真の庭になると論じられていました。
栗林公園にも当然この草の庭・行の庭・真の庭・枯山水の庭の四種類が存在しています。栗林公園に枯山水の庭があることはなかなか気が付かないのですが、小普陀がこれに当たります。また、古民芸館の中には小さいながらもまとまった形の枯山水の庭があります。
文化は人を引き付け、また、人はより文化の高い所を目指します。逆に文化の低い所に人は魅力を感じません。その地で生まれた者であっても文化が低くて魅力が無ければそこから去っていきます。文化の高い地域で生まれた者が文化の低い地域にやって来て定住する例は稀なことだと思われます。いくら行政が補助金を出しても金銭だけでは人はなかなか動きません。したがって、地域を発展させるためには文化のパワーを維持しながら向上させることが重要になってきます。しかし、文化力は一朝一夕にできるものではありません。長い時間をかけた一歩一歩の積み重ねが必要です。
そのような意味で、高松、香川の文化力の象徴はなんといっても栗林公園だと思います。この公園を目当てにやってくる外国人もいます。ところが栗林公園の価値を地元の人で知っている人は意外と少ないのではないでしょうか。この本が、高松ひいては香川の文化力の向上に少しでも役立つことができれば幸いです。
  令和4年11月3日  高松市文化協会会長  平井二郎

【目次】
監修者序文
プロローグ
第一章 歴史編
 第一節 栗林荘築庭前史
  一 佐藤氏の居邸
  二 生駒氏入封前の高松の地形
    1 香東川の西水流・東水流
    2 東水流と八輪島 ※道草話①―戦国時代の箆原荘
    3 八輪島の形状・・・西の流れと八輪島西岸/東の流れと八輪島東岸/八輪島の北岸/古高松湾
  三 生駒氏入封・・・高松城築城/栗林の地名のおこり/丸亀城築城/佐藤氏の生駒仕官/関ケ原を生き残った生駒氏/大坂の陣 ※道草話②―讃岐に逃れていた真田幸村
 第二節 栗林荘の創始
  一 生駒藩四代高俊 ※道草話③―島原の乱と小豆島そうめん
  二 西嶋八兵衛の来讃・・・藤堂高虎の家臣/土木家
  三 香東川の改修と栗林荘の築庭・・・香東川改修/栗林荘築庭の背景/西嶋八兵衛による築庭
  四 生駒騒動
 第三節 栗林荘の完成に向けて(頼重から頼恭まで松平氏五代)
  初代 頼重・・・初代水戸藩主の長子/高松藩の領域 ※道草話④―分割された那珂郡/頼重治世の時代/頼重による高松城と栗林荘の整備/京文化に親しんだ文化人 ※道草話⑤―讃岐を舞台にした能/後水尾上皇との親交 ※道草話⑥―楠木氏子孫の召し抱え/仏生山法然寺の造営/上水道の敷設、新田開発等の事績 ※道草話⑦―矢延平六/頼重のその他の事績 ※道草話⑧―小村田之助
  二代 頼常・・・水戸光圀の長子/頼常治世の時代/頼常による栗林荘の整備/その他の頼常の事績 ※道草話⑨―名刀〝真守〟をめぐる柳沢吉保との暗闘
  三代 頼豊・・・頼重の孫/頼豊治世下の時代/栗林荘をこよなく愛した殿様/小石川後楽園の大改造/頼豊のその他の事績 ※道草話⑩―丸亀藩から逃げてきた百姓
  四代 頼桓
  五代 頼恭・・・守山藩主の子/頼恭治世の時代 ※道草話⑪―童子が浜/頼恭による栗林荘の完成/薬草園と平賀源内らの登用/頼恭のその他の事績
 第四節 完成した栗林荘(頼真から頼聰まで松平氏六代)
  六代 頼真・・・頼恭の長子/頼真治世の時代/頼真の事績
  七代 頼起・・・頼真の弟/頼起治世の時代 ※道草話⑫―柴野栗山/讃岐の砂糖 ※道草話⑬―向良神社/頼起の事績
  八代 頼儀・・・頼真の子/頼儀治世の時代/讃岐東照宮の造営 ※道草話⑭―左甚五郎/※道草話⑮―あん餅雑煮
  九代 頼恕・・・水戸藩主の子/頼恕治世の時代 ※道草話⑯―讃岐に来ていた大塩平八郎/頼恕と栗林荘/歴朝要紀の編集 ※道草話⑰―冷や汗をかいた高松藩/坂出の塩田開発 ※道草話⑱――滝沢馬琴の親友だった木村黙老/漆器
  一〇代 頼胤・・八代頼儀の子/頼胤治世の時代/水戸と彦根の板挟みにあった高松/頼胤と栗林荘 ※道草話⑲―松平左近
  一一代 頼聰・・九代頼恕の子/頼聰治世の時代/桜田門外の変と頼聰 ※道草話⑳―龍虎隊と震遠砲/賊軍となった高松藩 ※道草話㉑―高松城下を戦禍から救った左近さん
 第五節 栗林園の荒廃と公園化(明治維新から明治二〇年代まで)
  一 版籍奉還から第一次香川県まで・・・版籍奉還/廃藩置県 ※道草話㉒―田村神社の大太鼓/第一次香川県の成立/栗林園の荒廃
  二 名東県時代・・・名東県への編入/県立公園として一般公開/甘棠社の設立
  三 第二次香川県時代
  四 愛媛県時代・・・愛媛県への編入/高松栗林公園碑の建立/愛媛県時代の公園管理
  五 第三次香川県の成立・・・愛媛県からの独立 ※道草話㉓―香川県独立の父という中野武営
 第六節 わが国有数の庭園へ(明治三〇年代から今に続く香川県時代)
  一 公園の整備・改修
    1 明治三〇年代における栗林公園の再評価と整備・・・殖産興業の盛上り/岡倉天心と小沢圭次郎の来讃/岡倉の栗林公園評/小沢の意見書 ※道草話㉔―及び腰の香川県/山林部分の公園敷地編入/日暮亭の再建/香川県博物館の竣工/関西府県連合共進会の開催/皇太子殿下の来園 ※道草話㉕―四国の玄関
    2 明治四四年から大正二年にかけての整備・・・北庭の改修 ※道草話㉖―野球王国高松/民営事業/大禹謨の発見
  二 大正、昭和(戦前・戦中)・・・相次ぐ貴賓の来園/栗林動物園開設/松平賴壽閣下像の建立 ※道草話㉗―染井の能楽堂/日暮亭の再移築/高松空襲
  三 戦後・・・高松市立美術館の建設/松平賴壽閣下像の再建/特別名勝指定 ※道草話㉘ ―市立公園となった高松城/天皇陛下・皇太子殿下の来園/観光と文化財保護の両立 ※道草話㉙―平成の時代に実現した頼重の夢
第二章 庭園編
  本編のあらまし/栗林荘記/栗林園二十詠・栗林二十境/高松栗林公園碑記/栗林公園保護論
 第一節 栗林六十景に基づく回遊
 (一)回遊ルートに沿った六十景
    1 北門から入る回遊
     ① 北門から潺湲池へ・・・嶰ノ口/潺湲池/芙蓉沼/石梁
     ② 西湖北端から戞玉亭へ・・・西湖/百花園(跡)/橘園(跡)/西隈/艮則梁(跡)/会僊巖/赤壁(石壁)/爛柯石屋/脩竹岡/戞玉亭(跡)
     ③ 鹿鳴原から観音堂へ・・・鹿鳴原/睡竜潭/慈航嶼/津筏梁/小普陀/到岸梁/観音堂(跡)
     ④ 南湖南岸から飛来峰へ・・・留玉梁/南湖/楓岸/冠松岡/巾子峰/南隈/考槃亭(跡)/飛来峰
     ⑤ 偃月橋から南湖北岸へ・・・偃月橋/回中/飛猿巌/桟道/玉澗/迎春橋/留春閣(跡)/旄丘/脩然台/栖霞亭(跡)/楓嶼・天女嶋・杜鵑嶼・仙磯/渚山
     ⑥ 星斗館・涵翠池の辺り・・・星斗館/掬月楼/初筵観/赤松林/涵翠池/瑤島/鳳尾塢/沁詩橋
    2 東門から入る回遊
     ① 北湖の周囲と南・・・東門/内門(跡)/箱松・屏風松/北湖/梅林(跡)/前嶼・後嶼/芙蓉峰/曲隈/南峽・磊川/愛駿榭(跡)/東隈/講武榭(跡)
     ② 青渓・日暮亭の周り・・・青渓/断虹杠/日暮亭/棋子瀬
 (二)六十景の分類と比較
    1 湖池/2 渓澗/3 隈潭/4 島嶼/5 奇石峻崕/6 岡阜/7 原/8 山峰/9 園/10 橋梁/11 楼閣館舎
 (三)高松栗林公園碑記(抄)
 (四)栗林公園保護論(抄)
    六大水局・十有三大三坡/水局構造/前嶼・後嶼/楓嶼・杜鵑嶼・天女嶋・仙磯/慈航嶼/瑤島/危巌怪石
 第二節 北庭の回遊
    讃岐民芸館/商工奨励館/商工奨励館前庭/檜御殿(跡)/御手植松/香風亭/北梅林/永代橋/群鴨池/紫明亭/大覗き/多聞島/花しょうぶ園/瞰鴨閣/鴨引き堀・小覗き
高松松平家・水戸徳川家関係系図
全国各地に残る主な大名庭園
関連年表
執筆者・編集者あとがき参考文献

【著者紹介】
〔監著者〕
平井 二郎
〔著者〕
村井 眞明
〔編集者〕
田中 哲也